昭和47年11月01日 朝の御理解
御理解 第96節
『世の人があれ是神の事を口端に掛けるのも神のヒレイぢゃ、人の口には戸がたてられぬ先を知っては居らぬぞ、如何に世の人が顔にかかる様な事を言うても腹を立てな、神が顔を洗うてやる。』
信心を知らない人、取分け金光様の御信心をお互い頂いております、その頂いて居る者、頂いてない者の違いと言うか、色々に枝にも葉にもない様な事を取沙汰する様な事がある、神様の悪口を言うたり信者の悪口を言うたり、色々な事が耳に入って参ったりします、まるっきり自分の家の事を言われておる様に、自分の事を言われている様に腹が立つもんです、金光様の信者ちゃろくな奴はおらん、なんて言う人があります。
又事実そうです本当に金光さまの信心しよるから、いわゆる実意丁寧神信心の者ばかりの者はいはいないのですね。けれどもやはり自分の事を言われとる様に、腹が立ったり致します、そう言う様な事が神の事を口端に掛けるのも神のヒレイじゃと。最近お道の信心全体がその、金光教の信心は非常に上品だと、学者が多いと、知識人が多いと、ですからその何て言うんですか、その信心の例えば悪臭とでも言うかね。
信心に悪臭と言った様な事は無かろうと思うけれども、矢張り信心の匂いをプンプンさせると言った様な物が金光教は非常に少ない、ですから誰からでも金光教の信心は信心のない人達からでも、よく言われると言われております。けれども是は私はですね、あんまり有難くない評だと思うですね。只金光教と言う特別の言うなら後にも先にもこう言う、例えば教祖金光大神の様な宗教家は出られなかっただろうと、思われる位な宗教ですから、ちった人の今まで聞いた事もなからなければ知らなかった。
その分野等が出て来る時には、ちった臭いがするのが当たり前金光教的な。言うならば御利益もあらたか、そう言う生き生きとした働きが起こりなされる時には、少しはです言うならば、隣近所に迷惑をかける様な事があるかも知れん。例えば一つの宗教なら宗教が、進出して参ります勢いよく発展して参りますとですね、他の宗旨宗派が大変困ると言う様な事がある。それは勢のある証拠です。
何処にもお邪魔にはならん言うならばある意味で、薬にもならにゃ毒にもならんと言った様な状態がですね、私は今の金光教が、まあ品がいい等と言われる、言うなら悪口の様な風に私は思うのですけれどね。その点例えば天理教とか、あの創価学会と言うのは非常に臭いが強い、言わばある意味でその強引であったりその、教祖の信心の性格による事でしょうけれども、何とはなしにそんな感じがする。
現在の金光教は品が良いと言われるよりもむしろ、品は悪くても何とはなしに盛り盛りと盛り上がって言っておると云うか、人が本気で本当に助かっておるとか、て言う様なですね、時代の方が有難いのじゃないかと言う風に思うんですけれどね。そう言う様な場合どうしても、神の事をとやかく口端にかけると言う時代がある、是は合楽教会の場合であってもそうです。それやーもう極まりなく進展していかなければならないと思うし、又それだけ生き生きとした働きが起こる。
一つの神様の御発動とでも申しましょうか、を受けなければならん為には、やはり生き生きとした働きが色んな姿、形に表れて来る。それが確かに良い事ばかりではない、悪い事の上にも現れて来る。それで椛目合楽を通して、まあ色んな問題を合楽の場合は何時も持っておる、それが良い事悪い事は別としてです、一つの批難を受ける元になったり、又は羨望の的になったり、又は誉めちぎる人達も中には有りますけれどもです、まあ様々な状態が有ると言う事は、是は合楽が生きておると言う印なんです。
絵に書いた教会の様に一つも動きがない。はー成程見事だと云うだけの物じゃない。ですからやはり世の人があれ是と神の事を口端に掛ける様な場合も、私は合楽の場合は多いのじやないかと思う、最近感じる合楽教会にいろんな批評が有っておるのを聞かせて頂きましても、兎に角合楽は自分のその教会だけ立派にして行って、御本部や親教会にゃー全然御用しない、お供えが少ないと言う様な事がですね、実際に言われておる又事実そうです、もう親教会でも御本部でも実は本当に性分な事です。
けれどもそれが取り上げられておると言う事はです、やはり神の事を是は私の信心、私の生き方、私の信心をもって進ませて頂いておるのですから、それはまあ私としてはまあ新たな言うなら宗教革命と言った様な言葉迄使って申しております事ですから、現在の行き方では駄目だと、是は宗教全体に言える事だと、その中に金光教もやはり有る。合楽の行き方が本当か嘘か世に問いたいと言った様な、確かに願いは私が持っておりますから、だからそう言う事には耳は貸さない。
只自分の信心する所、只まっしぐらに進ませて頂くだけだと、そしてなる程合楽の行き方は間違っていなかったと言う時に神が顔を洗ってやる、と言う様な事になって来るのじゃないかとこう思うのです。まあ此の九十六節はそう言う様な意味の事を、御理解下さってあると思うのですけれども、今日は特に神のヒレイじゃと言う所。神のヒレイ、ヒレイ是はヒリッピンノ比ですね、レイはお礼の礼が書いてありますね。
それはどう言う事かと言うと、生きた魚がこのあの鰭を立ててパッパッパッと泳いで行くでしょう、あの勢いの事を比礼と教祖はおっしゃっておられるそうです。魚が水の中を泳いで行く時に、鰭をパッパと動かして行くでしょうが、あれが比礼いわゆるもう、それこそもうなんか突き進んで行くと言うかねえそう言う比礼。ですからね、だからこそ、生き生きとした、おかげも頂けるのであります、だからその比礼と言う事をね、私今日はね、神の比礼と言う事に。
例えばこの、九十六節の全体の事をに於いては、今まで申しました様な、ざっと申しましたけれども、確かに勢いが有る時には、人が良う言うもんもありゃ、悪う言うもんもあったり、色々有りもしない事を、有るかの様に言うたり、又は悪口を言うたり、信者の悪口を言われる事は、金光様の悪口を言われるのも同然お様な事を言う、それが耳に入って来る、そう云う時に腹を立てなと、こう仰る。
其れは神の比礼じゃからと仰っておられます、生神金光大神が生きとるからだと、合楽の信心が生きとるから、そう云う様々な形が生き生きと現れて来るのだと。様なことを申しましたね。ですから今日は只、そこでそう言う意味でなくて、神の比礼と言う事だから神の比礼と言う事一言にしてそのまあその頂くとですね、御神訓に『やれ痛やと言う心で有難し、いま霊験よと言う心になれよ』とあります。「やれ痛やと言う心で有り難し、いま霊験よと言う心になれよ」中々難しい事です。
叩かれて痛いああ痛いと思うです、どうしてくらわせるかと言いたい所です、叩かれるから痛い事は痛いけれどもです、やれ痛や今こそおかげを頂いておる時だ、是こそ神の比礼だと言う事なんです。教会の中に問題がなくなったらもうその教会は、火の消えておる証拠だと言う事です、問題には何時も所謂問題をはらんでおかなければならない、是は教会でも家庭でもそうです、問題をはらんでおるいっぱい。はらんでおるからそれが産みなされる、次々と産みなされる、それが良い物が産みなされて来るのです。
はらむと言う事はお腹の中にある子供はらむと言う事でしょう、それなんです。だから問題がはらんでおると言う事はです、それは問題ではなくて神愛、だから痛い事であっても、やれ痛やで今霊験をと言う事になる、有難しと言う心になる。もう本当にもうこう言う問題は煩わしい、とこうやって頭を打ちぶる様な事じゃつまらん、その問題の一つ一つをです信心によって、おかげを頂く時に神様の働き神の力を、愈々知る事が出来る。しかもそれがはらんでおるのですから。
産みなされる時には良いものが生まれて来るのです、それは生きておる印なんです。昨日一昨日三十日の御理解を聞いて下さった、もう本当に朝から何とはなしに胸がつまる様な、心が暗くなる様な、どうにもじっとしておられん様な、そう言う重苦しい一日であった。もうお取り次ぎをさして頂く一つ一つがです、もう本当にもらい泣きする様なお届けが次々と有った、言うならもうどうにも出来ない問題である。それはどうしなさい、こうしなさいと言い様がない程の問題である。
只神様にお縋りするより他はないじゃないのと言う様なお届けであった。私の心も暗い、お取り次ぎを願う人達の心も言うなら難儀な問題、それこそ『あまりの辛さに外に出てみれば外は吹雪きで尚見えぬ』と言う一日であったね、ですからです外にも出て見たけれどもやはり苦しい事は続いておる、何とか神様おかげを頂かせて下されと言う事を祈り願わせて頂いて、ここに私座らせて頂いてあの和賀心時代を又改めて読みなおさせて頂いた、半ば迄読ませて頂きよったら。
もう感動が湧いて来て、何処から湧いて来るか分からん有難さがもう心一杯に広がっていった。それから後のお取り次ぎはやっぱり同じ様なお取り次ぎが続いた、けれどもね、今日私兎も角苦しゅうして悲しゅうしてと言う一日だったけれどね、和賀心時代を読ませて頂きよったら、その苦しい事以上の有難いものが湧いて来た、あんたも帰ったらあればまー一遍読みなさいち、言うてお取り次ぎさせて頂いた。もうそれで昨日、はぁ皆んな今度はおかげ頂いてですね。
本当に神様が生きて御座る印、こう言う難儀な問題こう言う事が手の平を返す様な、こう言うおかげになって来ると言う事は、是は何時もの事ながら只只恐れ入ってしまう。昨日は又だからそう言う一日だった、前日のそうした、もうどうにも出来ない程しのもう神様に、どうのこうの言うて、私も右にせんの左にせんのと私も言われないのだと、一生懸命におすがりして行きよれば、そこになんとか何とか道が開けて来るだろうから、その時点時点を有難く受けて行く以外はないじゃないの。
お縋りして行く以外じゃないじゃないの、言うなら神様の前に無条件降伏です、手を上げて進まにゃ仕方がないじゃないのと、言う様な是はもう三つばかりはもう本当に、そう言う様な事であったが昨日はその三つながらおかげを頂いて、そのお礼に出て来たんです。もう話しを聞かせて頂くとね、もうそれはもう本当に恐れ入ってしまう、それはどう言う訳かと言うと、所謂そう言う難儀な事に直面しておる事もです神の比礼だからなんです。昨日おとといそう言う難儀な問題をお願いに来て。
朝もお願いに来た、昼もお願いに来た、夕方もお願いに来た、それでもどうにも出来なかった、そして昨日の朝又お願いに来た、昼出てきた時にはおかげになっておった。そう言う例えばおかげと言うのは、いわゆる神の比礼がそれこそ、顔に係わるような事を言われてもです、又は悪口を言われてもです、それは神の比礼じゃと受けとめさせて頂く所から、いわゆるそう言う問題がはらんだ時にです、もうその苦しい事がもう最高潮である時には、もう産みなされる前提なんだ。
ですからそれを他の方え持って行かずに、神様え向けて行くと言う所からです、今迄出来なかった言うならいうなら、問題なら問題の道が開けて来る、おかげに成って来る、手の平を返す様なおかげになって来る訳です。その一つ一つの内容をつまびらかに出来ないのが残念です、けれども本当にそれは皆さんが銘々の上でおかげを受けておられる、いろんな事がありましょうが、人にも話せないけれどもおかげを受けておる、そう言う風なおかげが、一昨日から昨日にかけての続いてのおかげであった。
かと言うて今日それがどうなるか分からん。だからいわゆるその時点を大事にして行く、其処ん所を大事にして行く。まあ是だけは桜井先生夫妻が見えておるし、おられんなら話せん事なのですが二人がおられるから話しましょう。でないと身が積まん様な気がする。桜井先生のお届けも、それと良く、いま今日申します胸が詰る様なお届けでした、昨日あの月末の御礼の神話会の時もご自身で発表しておられましすから、明かせて頂きますとね。一昨日でしたかね、事業税が税金が溜まっておる。
だから今日迄に納めなさらんともう差し押さえに来ると言う事であった。手が無いのですもんね、まあそれを一心にお縋りをしてお願いなさっておられた、私もその事をお取り次ぎさせて頂いた。それから、おかげでまあぎりぎりに、おかげを受けられた、まあそのおかげの表れ具合もなんとも言えんもう、御神意の中に有るなあと、思わせて頂けれる様な物であった。丁度そこで、金策のあかげが頂けた時に、電話がそこに掛かって来た、それがどう言う事かと言うと、桜井先生が受けなさらなければならない。
お仕事の仕事の注文が丁度そこえ入って来た。本当に此処には、お金の工面に来ただけであったけれども、帰りには仕事までもらって帰れる。神様のそう言う働きに恐れ入って、それこそ有難い勿体ないで帰って見えておった。そしたら椛目の所迄来たら丁度中島さんがまあ桜井先生ちょいとお寄りなさいと言うから、是一本持って行って下さいと言うて山芋を一本下さった、まあ有難い。
そしたら向かえから池尻が、まあ桜井先生ちょいと寄って下さいち、そして是はまるきり桜井先生の為に用意してあった様に御馳走が出来ておった、まあ兎に角お食事頂いて帰って下さい。もうほんに手の平を返す様に、今のさっき迄金策の事で頭痛め、悩み抜いておられた、それが要約おかげ頂いた時には、思いもかけない所から仕事の電話が掛かって来た、有難い勿体ないで帰って来よった、そこにはもう何かその、まあ言うなら神様が。私は昨日、この和賀心時代の中に青年教師の方達に話しておる、
牡丹に唐獅子と言う様なお話をしております、それはもう可愛いからこそ戯れる。例えば私共の事を信者氏子と言うて下さる、信心のない者の事をただ神の氏子とこう言うて下さる、信心のある者の事を神の氏子と、とりわけお道の教師でも志して頂く者の事は、信者氏子の中の又信者氏子、言うなら選りに選れた言うならば選民の中の選民だと言う風に表現しておられる。言うなら神様のそうした白羽の矢の立っておる程しの私と言う自覚がなからなければ、金光様の先生は勤まりませんと言う話しをしてるんです。
ですから場合にはです可愛いからこそ神様がたてがいなさる様な事がある、牡丹に唐獅子である、子供が可愛いとこう突いてみたり叩いてみたりしたいでしょう、おひぎんでもやったりとったりして、泣き顔を見るとを楽しむ様な大人の様子がある様に、神様も同じ様な事がある。場合によっては可愛い子供を千尽の谷に突き落とすと言う様な場合もある、そして這い上がって来る、それを親が祈り願っておると言うのである。
桜井先生の場合は正に千尽の谷に突き落とされてと言うその日一日の在り方ですね、様などうしてこんな難儀が続くじゃろうかと、言う様なその様子の中からようやく這い上がっておかげを頂いたと、やれやれ上にあがらして頂いたら、もう神様が手を取って引き上げ御座る様な感じ。そしてその次ぎには、さあ是も持っていけ、あれも食べよと言う様な、働きになって来ておる。私は帰って見えて、そのお届けを此処で聞かせて頂く時に、本当に、あの有難涙のもらい泣きを致しました。
と言うのはね、そう言う、おかげを受けると言うのは大したた事ではないです、けれども、それまでの神様の演出と言うか、神様の働きそのものが私は有難かった。さあ有り難うして有り難うして答えん、ですからもう夕方もう気も急くけれども、もう長い長い間此処で御祈念なさっておられたけれども、御祈念しただけではどうもすまん感じがする。其処でまあ便所の掃除もさせてもらおう、お庭の掃除もさせてもらおうと、思ううちに日が暮れてしもうた。
此れは遅くなったと思うて帰らせて頂いたらどっこい、奥さんが『あんた何しよんなさるとか』と言う事であった。もう本当に昨夜もその奥さんとのいろんな問題をです、昨日は奥さん出て来とられませんでしたけれどもです、もう本当にもうそれこそ、千尽の谷から突き落とされた所から這い上がっておかげを頂いた、それこそ撫で擦りされる様なおかげを頂いて、もうやれ有難やその有難さがどうかせんとおられんと言う働きになって来ておった 夕方になった日が暮れた家に帰ったら。
家内が待ちうけておって、どうしよんなさったですかと、それで先生お金をこちらに持って来とらやったかと。何処かに置いておられたかで、奥さんがその金が要りなさるとじゃったげな、だからそう云う様な事からまた小さいトラブルがあった。と言う話しを聞かせて頂いて、もう神様がもう息つく暇がないごたる、千尽の谷に突き落とされた這い上がった、又突き落とされた又這い上がろうとせにゃならん。そう言う事がてす私は神様の生き生きとした、御比礼の中に有るからだと私は思うのです。
ですからその事は神様の生きた働きの印なのですから、お礼を申し上げるより他にない、成程、やれ痛や今霊験をと言う心、有難いと言う心で受けなければならないと言う事が分かります。どの様に世の人があれ是と神の事を口端に掛ける、神の事だけではない信心しよる者の事を悪く言う、金光教の事を悪く言う、又は自分の顔に泥をぬられた様な事を、例えば言われる様であっても、それは私共が生きた信心をさせて頂いておるからなんだ、生きた比礼のあっておる印だと分からせて頂く時にです。
やれ痛や今こそおかげを頂いておる時だと、お礼が言えると言うのです。だから問題と言うものはです、やはり何時もある事が有難いのです、平穏無事、なあにもない、日の御理解じゃないけれども、極楽と言うのは決して平穏無事と言う事じゃない、只百味の御食を頂いておる事じゃない、たんなる音楽を聞き続けておる事ではない。そう言う例えば問題の中に神徳を受けても心配はない、と仰せられるけれども神徳を受ければ、受ける程その時点で心配はある、問題はある。
けれどもより力を下さろうとする、より有難い御神徳に触れさせて下さる事の為にです、有るのが私は問題だとこう思う。その問題がはらんでおる時にですそれを大事にしなければ、折角のはらんだものが流産になる恐れがある訳です。おかげにならんのです。ですからそう言う神様の生き生きした働きと言う物をです、何時も身に付けそれを頂かせて頂く所からです、問題がいわば有る意味で楽しうなって来る訳です、勿論問題が何時も同じ問題じゃいけませんよ、その問題が高度なものになって行かなければ。
もうそれはそれは、私は此処の合楽教会が生まれた時です、開教式の時にお話したんです、それはね此の合楽の里に合楽教会が忽然として生まれた事を申しました。本当にあれよあれよと言う間に、アッと言う間に出来たのが合楽教会あったです。忽然として生まれたのですから、忽然として消える事もあるのです。だから信心は油断がならんと言うのです、どの様な素晴らしい信心が、それこそまあなんと言う素晴らしい信心だろうかと言う様に、言わば思いがけない信心の人が有ります、良い信心。
けれどもそれが忽然として消える事があるのです、私は本当に夢か幻かと言う様な言葉がありますけれども、金光様の御信心はそうです、夢かと言う様なおかげを頂いておるかと思うと、もう其の次ぎには幻の様に消えておるです、それを頂き続けると言う事がです、金光様の御信心です、それを頂き続ける事の為に、いよいよ力が求められるのです、いよいよ光りが求められる。
それが神様の願いなのです、その光が力があの世に持って行けるのです。ですからこの世ではどうしても倒れ転びしながらでもです、その力を頂く事、その問題を問題とせずに、問題を信心として行くその手段がです、力をいよいよ頂いて行く事の為の精進心、いよいよ磨いて行く事の為の精進になるのである。その磨かれた心がその魂があの世え行って、言わば永却おかげの頂かれる魂として、おかげが受けられると言うのが信心なのですから、その時点でおかげを頂いたとか落としたじゃないですから。
本当に忽然と現れ忽然と消える程に信心と言うものは、風前の灯にあるのが信心と言うても良いでしょう、いわゆる心次第、何時消えるやら分からない。その消えようとするそれをです、掻き立て掻き立て信心を進めて行って、いよいよ依り大きい光にして行く、その光そのものがあの世に持って行けるのです。ですから私共がとうしてもまず神様の比礼、生きた信心しておれば生きた神様の比礼が有る、それは良い事だけではない、良い事悪い事様々な事の中に神の比礼を感ずる。
だから其処ん所をやれ痛や有難いし、今霊験よと言う事にならして頂く信心を身に付けておかなければならん、やれ歯痒いと思う事がやれ有難いと言う事にならなければならん。もう神様なればこそ言うなら千尽の谷に、突き落とされる様な事が有るのだけれども、それを這い上がって行く力こそが神様の願いなのである。それで痛め続けてばっかりはおれんから、場合によっては桜井先生じゃないけれども、さあ是をお持ちなさいませ、是は桜井先生ああたの為に出来た様な御馳走だと言う様なです。
もう本当に撫で擦りされる様な所もやっぱ有る訳です。そこに私共は生々とした、神様の働きを感じさせて頂いて、神様なればこそと言う 思いの中に信心を進めて行くそんなら一生がそげな風、なら一生が修行ただしその修行が、何時も同じ修行じゃつまりませんよと言う事です。昨年も金の無い金が無い修行じやったが、今年もやっぱり金のない金のないの修行ではつまらんて、何年後かにはもう金に不自由しないけれどももっと高度な、程度の高い問題でなからなければならないと言う事です。
だから限りなくおかげの進展して行く、信心も進んで行くそこに力も頂いて行く、そしてぎりぎりの所その力その物がです、生粋あの世にもって持ってゆけるもんだと云う事。だから神様の願いはそこに有る。だから一生が修行と仰るのは、本当に一生が修行と言う事を金光さまの信心させて頂くなら分からにゃいけん、けれども有難い勿体ない、嬉しゅう楽しゅう出来る、修行にして行かねばならん。
只辛抱しておれば神様が顔洗うて下さると言うだけのおかげに留まらずに、そう言う例えば顔に係わる様な事が有った時にです、それをいよいよ自分の信心の力にして行かなければならない、力にして行く頂き方をです、やれ痛や今御影を有難し今霊験を、と言うそう言う生き方をです身につけさせて頂きますとね、信心はいよいよ楽しい有難いものになって来るのじゃないでしょうか。
どうぞ。